「子どもの可能性の芽が摘まれてしまった。謝罪されても、もう時間は戻らない」

県立神田高校(平塚市)が入試で選考基準を逸脱し、本来なら合格していた二十二人の生徒を服装の乱れなどを理由に不合格にしていた問題での、その保護者のコメントだ。

親御さんからすれば、規定外の選考で可愛い子供が試験に落とされたというのは、憤懣やるかたないところだろう。

この保護者のコメントにネットでは批判が相次いでいるが、それは少し気の毒なような気もする。

選考基準というのは公に明示されているもので、外見や素行も選考に加わるのなら、やはり銘記すべきであったろう。
校長先生については嘆願書が集められ、同情の声も多い。
しかし、15歳の子供である。
素行や外見に多少の問題があっても、それを指導するのも仕事のウチではないだろうか?

さて、親御さんの方であるが。
「可能性の芽が摘まれた」というのは、交通事故死や殺人などの不条理に見舞われたときの言葉である。

生きている限り、何人たりとも、その可能性の芽を摘むことなど出来ない。

人生には災難や困難が少なからず訪れるものである。
「保護者」と言うだけに、我が子を庇護したい気持ちはわかる。
しかし、理不尽な状況に恨み事を言っても、それこそ「もう、時間は戻らない」のだ。

どんな困難な状況にあっても、それを乗り越え、前向きに生きるように道を示すのも親の仕事ではないだろうか?

人間は可能性の塊である。高校など行かなくても充実した人生を歩んでいる人は沢山いる。
二十歳を過ぎてから学校に入りなおす人だっているのだ。

人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)
禍福というのは予測できないものである。

前向きに未来を見据えて生きていけば、いずれ「あの時のお陰で今の自分がいる」と思える日が来ることだろう。
頑張って欲しいものである。